エクスポネンシャルライフ

青空と緑、ドライブとグルメ、別荘と小径

時代性(ネチェシタ)

 

先日、東京に久しぶりに赴いてからここしばらくの間

何もせずただ、ぼーっと考え事をする時間が増えていた。

 

気温の寒暖差が激しい秋のせいもあるのか

、春や夏ほど活発な動きが出来ていないのも

理由のひとつなのだろうが、地元に帰ってきてから

内面からやる気というものがいまひとつ湧き上がってこない。

 

ただただ頭に浮かぶ考えは

 

「なぜ、自分はあそこ(東京)にいる事が出来ないでいるのか」

 

考えていてもしょうがないの事なので

とにかく手を動かしてブログを書いて収益化するなり

東京で転職活動するなり、資格でもスキルアップでも

とにかくやれる事はなんでもすればよいのだろうが

頭の中では、それらがうまくいくような成功への道筋が

まったく描けていない。

 

やる気も起きないのでとりあえず、仕事帰りに

自室の本棚にある本を何冊かめくっていくと

ふと手を止めて、没入できた本があった。

 

マキアヴェッリ語録 (新潮文庫)

マキアヴェッリ語録 (新潮文庫)

 

君主論”でおなじみのマキアヴェッリの他の著作も含めた

冷徹な見識に溢れた語録集だ。

 

気分的に想像や妄想の世界に偏っていた自分を

彼の現実的な思考に裏打ちされた珠玉の言葉たちが

沈む気持ちを現実世界に引き戻してくれた。

 

これは先日ブログで紹介した”偶然の統計学”が数学的、統計学的な見地から

現実に引き戻してくれるのと似たような感覚だ。

tokyomesen.hatenablog.com

 

ゲームの仮想空間ではだれもがゲームデザイナーが構築した

世界の中で英雄にでもなれるのだろう。

 

仕事の休憩時間、スマホを握りしめて対戦ゲームに明け暮れる職場の

オッサンたちはしばし数インチの画面の中で英雄になりきっているようだ。

 

だがマキアヴェッリが生きた時代の英雄こそ、自国内の政争や隣国との

領土戦争の過程で突きつけられるギリギリの判断や行動が国家・国民、

ひいては自らの生命に直接的に反映された結果生き残る事が出来た

勝利者、真の英雄ではないだろうか。

 

ぼけーっと考え事をしている無駄な時間はもうない。

 

マキアヴェッリの言葉は苦しい現実を生きていようがなんだろうが

漫然と生きている現代の弱者や自分のような低所得者には特に重く響く。

 

それは自分自身が生きた時代に翻弄され、最後には奴隷同然の

立場で死を迎える可能性がある事を浮き彫りにさせてくれるからだろう。

 

例え一時的な気晴らしに成功したとしても、その時はいずれやってくる。

f:id:mrnancy:20191120142056j:plainThe Murder of Rutland by Lord Clifford, by Charles Robert Leslie

薔薇戦争 - Wikipedia

 

そんな恐怖感を味わいながらこの本を読み進めていたら、

無性に肉が食いたくなって(笑)毎日肉料理、休日には必ず地元のステーキ専門店で

がっつり食べるようになった。

 

そうか、おまえはまだ生きたいのだなw

 

やる気も気持ちも前向きに戻りつつある中、マキアヴェッリの語録の中で

ピンポイントで刺さった言葉があった。

 

『時代性 Necessita(ネチェシタ)』

 

なぜ、時代性を重視するかというと、

人間というものは、

名誉であろうと富であろうと、

各自が目的と定めたことの実現に向って進む時、

種々さまざまな生き方をするものだからである。

 

慎重にやる者もいれば、大胆果断にやる者もいる。

力で押していく者もいれば、技を駆使する者もいる。

忍耐に忍耐を重ねて実現する者もいれば、

その反対をやって成功する者もいる。

〈中略〉

この理由は、一に、彼らのやり方が

時勢と合致していたかいなかったかにあるのだ。

 

とはいうものの、時代の変化に対応して、

自らの生き方を変えていけるほどの賢明な人物は、

それほど多くはないものである。

 

なぜなら、人間は生まれた性向から

なかなか離れられないものだからだ。

〈中略〉

それゆえ人間は、

自分流のやり方をつづけても

時勢に合っている間はうまくいくが、

時代の流れにそわなくなれば失敗するしかない、

ということである。

 

マキアヴェッリ語録 第三部 人間篇

時代性について

 

昔々、予備校の先生と今後の自分の学習方針についての

話し合いで、成績も落ち込んでいなかったことから

学校のカリキュラムを守っていくのではなく、

あくまでも自己流の学習方法の継続を主張したのだが

その先生が最後に一言

 

「おまえは結局自分で解決方法を見つける男なんだよな〜」

 

と、ぼそっと言われて、その時の話し合いは終了した。

 

その時はそれを「褒め言葉」だと捉えて、その後も事あるたび

その言葉の通りに行動していた。

 

俺は俺、他人は他人。俺は俺を主張するだけ。

いやならついてくるな。

 

その方法で問題を乗り越えた事も多くあったが、それでも今振り返ってみると

もっと良い考え方はいくらでもあったし、失敗したままで解決不能

の状態もままある。

 

つまり、あれは先生の「褒め言葉じゃなく諦めの言葉」だったんだなと

今現在の自分の経済的な環境が教えてくれている。

 

マキアヴェッリの時代のように判断や行動のミスが

直接的な生死に関わる事はないと勘違いしているが

現代はそれが長く緩慢になっただけで、実際に勝者と

敗者は過去の歴史と同じく厳然と存在する。

 

唯一の助けは、最後の日まで時間を稼いでいる状態が長いので

(平均寿命が伸びた事も幸いして)

「その時代に合わせて再スタートを切れる可能性が高い」

という事だけだ。

 

要するに、敗者復活戦というやつを

生きている限り毎日続ける意思を持ち続けるということだ。

 

と言う事で、ブログ100記事目は

マキアヴェッリのこの言葉で閉めたい。

 

きみには、次のことしか言えない。

ボッカッチョが『デカメロン』の中で言っているように

 

「やった後で後悔する方が、

やらないことで後悔するよりずっとましだ」

 

という一句だ。